迎陽隧道の由来
迎陽隧道の由来
明治四■年、上野庭村ハ、峻険ナル坂道相
続キ、旦ツ屈曲甚ダシク、車馬ハ勿論徒歩ニ
於テスラ、困難オキワメ、隧道掘削ヲ決意
地元総出デ開鑿シタ、当時機械力モナク
総テハ、手堀ニ依ルモノデアッタ、大正四年
秋、隧道口崩壊防止工事完成ノ時、迎陽隧道
ト名ヅケラレテ、今日ニ至ッテ居ル。
近年、交通量ノ増大ニ伴イ、災害防止ノ為、横
浜市ハ 改修ニ着手シ、昭和五十三年八月、
コレオ完成スル
昭和■十■年八月
上野庭町内会文化部
ひじょうに読みづらいので、送り仮名をひらがなに直し、漢字を部分的に修正したものを次に示す。
迎陽隧道の由来
明治四十年、上野庭村は、峻険なる坂道相続き、且つ屈曲甚だしく、車馬は勿論徒歩に於てすら、困難をきわめ、隧道掘削を決意地元総出で開削した、当時機械力もなく総ては、手掘りに依るものであった、大正四年秋、隧道口崩壊防止工事完成の時、迎陽隧道と名づけられて、今日に至って居る。
近年、交通量の増大に伴い、災害防止の為、横浜市は 改修に着手し、昭和五十三年八月、これを完成する
昭和六十二年八月
上野庭町内会文化部
※明治四十年はあてずっぽうであり、定かではない。昭和六十二年も判読不能であり、あえて数字を入れてみた。あるいは昭和五十三年でいいのかもしれない。
それから、うっかり見落としていたことがある。
トンネルのすぐ脇の石垣に大正四年当時のものと思われる碑がはめ込んであるのだ。
およそ六十年の隔たりがあるはずの石垣と石碑がみごとに融合して、ちょっと目には気がつきにくい。
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